就活失敗したニートの就活記

就活失敗したダメな大人の体験記

自己紹介と経緯

 

なんだろうこれ

今年から一念発起して、職を探そうとしたダメな大人の記録。

ぼくのスペック

年齢:28歳

性別:♂

ニート歴:6年

職歴:なし!バイト歴すらなし!

学歴:大卒(某掲示板の格付けではAランだったりBランだったりする変な大学)

容姿:うーん?

経緯

去年、同級生との忘年会にて、以下のようなことがありました。

 

ぼく「飲み過ぎて吐きそう・・・トイレ行ってくるよ」

友達「ほどほどにねー」

ぼく「ゲフー」←個室前の縁側のような部分で横たわる

するとこんな声が聞こえてくる

友達「ぼく君はいつ就職するんだろうか」

友達「あそこまでいくともうムリなんじゃない?」

友達「自分がああなったらって思うと・・・」

友達「ぼく君とか雇うところあるのかな」

友達「まぁもうフリーターとか底辺な職しか・・・」

友達「どうしようもない」

 

とかいう陰口が聞こえてきた

全部事実だからいいんですが、なんかショックでした。

単純に悔しいとおもったので就活をすることにしました。

 

ダメ人間になるまで(長いから読まなくていいです)

小学校までは普通だったとおもうけど

中学校から少し人生に闇雲が走りだす。

それは家庭内の事情で、母親と父親が別居してしまった。

以外かもしれないが、母親がぼくを残して家を出て行ってしまう。

代わりに、自立していた歳の離れた姉が家に戻ってきた。

可哀想な境遇なんだろうか・・?今時なら普通にある境遇だとぼくは思う。

実際のところ、それで悲しいとか複雑な気持ちみたいなことになって

思春期に”グレる”ということはぼくには起きなかった。

母は近くに住んでいたし、姉が帰ってきてむしろ嬉しかった記憶がある。

人は中学生ぐらいになると「なぜ毎日、学校へいって勉強をしているのか?」という考えに至ることがあると思う。

勉強も嫌いだし、部活をやっているわけでもないのでぼくは学校へ行きたくなくなった。

そう、不登校になった。

イジメられたわけでも、勉強についていけなかったわけでもなかった。

母が出て行って朝起こしてくれる人もいない。自分で家の鍵を閉めて学校へいく。

ぼくは気がつく

「これサボれるんじゃないの?」と。

制服を着て学校へいったフリをして学校へ行かなかった。

ゴロゴロしてゲームしたり漫画を読んだり、至福の時間だった。

夕方になったら、下校してきた友達と遊んだ。

 

案の定、学校から電話がかかってきてバレる。

この時、激昂した父親に初めて折檻をされた。

当時のぼくは、サボったことの何が悪いことなのかよくわかっていなかったから

この出来事以降、父親が嫌いになった。

たしかにサボりは悪いことだけど、学校にいくことの意味を見いだせなくなっていた自分にとっては不当に殴られた気分だった。

しかし、父親が怖かったので学校には行きました。

丁度この頃に徹夜でゲームをするとか、夜更かしを覚えはじめて学校での時間はほとんど昼寝になった。

成績はみるみるうちに全部が最低評価になった。

そんな中、高校受験の季節がくる。

 

進路相談では、この成績では定時制か私立へ行くしか無いと言われて父親が愕然としていた。

父親は公務員をしているのですごくお堅い感じだ。

公務員の家だが、私立へいくお金なんて奨学金に頼る他なかった。

だから勉強して公立へ行かそうとして、必死に成績を上げるように懇願された。

勉強ってなんなんだろうとか、こんな紙切れで評価して何になるんだろうとか

そんな哲学チックなことばかり考えていた少年にとってはその願いの意味がわからなかった。

端から見ると、ちょっと変わった人間だったとおもう。

そんな人間だったからか、中学最後の担任の先生はやたらと自分を気にかけてくれた。

家族よりも自分のことを評価してくれていた。(昼寝しかしてないのに)

そんな先生に根負けして、勉強をやってみることにした。

 

今思うと、当時の自分より自分を理解していた先生だった。

ぼくは、自分が納得しないと絶対に歩を進めないような人間だ。

そういう頑固なことは父親に似ているとおもう。

だから最初は勉強をしろと言うのではなくて、本を読むことを薦めてきた。

国語の先生ということもあったが、自分に読解能力があることを見抜いてたんだとおもう。

放課後に中1のおさらいから見てくれたこともあった。

そんな日が続く中、驚くべきことに国語科目で90点以上を取ってしまう。 

それから勉強のコツ?みたいなものを掴んだぼくは社会、英語、理科・・・と

どんどん成績がうなぎのぼりだった。

ただ、国語の応用が効かないような物理や数学といった科目はダメだった。

 

そんな僕の高校受験はどうだったかというと

あっさりと公立高校へ合格した。しかも割と進学校に。

先生と抱きしめ合ったのを覚えている。

 

この頃から父親がぼくをキツく叱ることはなくなった。

 

 ビリギャルのような展開だが、高校からのぼくはどうかというと・・・

高校は近場を選んだのだが、同じ中学出身の人が指で数えるほどしかいないところだった。

当時、内向的でシャイなぼくは幼馴染の友達を失った気がして辛かった。

○○中出身~とかで最初は固まって動く中で、孤立していた。

しかも学科の関係でクラスの男女比が女3:男1で、顔見知りが1人もいないクラスだった。

今思うと、ギャルゲーとかアニメかよとかおもう環境だったが現実はそんな良いものではなかった。 

 当然ながら、ずっと溶け込めないでいたぼくは浮いていた。

人間というのは不思議なもので、自分と同じ臭いがする人間を探そうとする。

ぼくと同じように溶け込めないでいた人と友達になった。

その友達は、今に至っても親交のある親友の1人だ。

 

高校では友達とバカなことをたくさんした。そこら辺にいるバカな男子高校生だった。

女子の比率が多いのもあってか、男子の結束がやたら硬かった。

僕はオタクグループと呼ばれるジャンルにいる人間だったけれど

イケイケなグループの人とも喋ったり遊んだりしたし

いじめなんてものはなく、スクールカーストなんてものはなかった。

そして、高校の友人のほとんどは今になっても親交がある。

 今思うと、最高の環境で生きていたと思う。

自分の思い出の中でも一番楽しい時間が流れていたと思う。

 

勉強はどうだったか?というと以外にもけっこう優等生だった。

ただ嫌いな科目は嫌いなままで、成績は上がったけど普通になった程度だった。

勉強が好きというよりは、本や教科書を読むのが好きになっていた。

だから理数科目以外の教科書はとにかく読みまくっていたので勝手に頭に入っていった。

中でも古典は本当に得意で、放課後に赤点の人に古典を教える役割を与えられてたほどだった。

 

しかし、高校で後悔したことが幾つかあります。

まず1つ目、バイトが出来なかったこと。

ぼくは最初の1歩がなかなか踏み出せない。

踏み出してからはしっかりと歩くんだけど1歩がなかなか出ない。

失敗したらどうしようとか傷つくのが怖くてたまらない。

実はバイトすらしたことがないと言いましたが、高校のときに

バイトをしようとおもって、ファーストフード店に履歴書を出しました。

簡単に面接をして、人手が足りなさそうだったので面接後すぐに働くことに。

調理の工程を説明されて、組み立てるようにジャンクフードを調理場で作っていました。

バイトを初めて2日目のことです、お店に学校の先生がやってきました。

校則でバイトは家庭の事情等の届け出がないとダメな学校だったので、僕は学校で呼び出しをくらい、バイトを辞めることになりました。

辞めるときにバイト先のマネージャーはご立腹で、嫌味を言われて辞めてきました。

この一件からバイトをすることが怖くなって、めんどくさくなりました。

 

そして二つ目、彼女を作らなかったこと。

楽しそうな学生生活を送っていたように見えるのですが、彼女というものを味わわなかった。

今でも、手を繋いで歩く学生のカップルを見ると後悔の念が沸々と湧き上がる。

女子の多い教室で色恋沙汰が1つも無かったのかというと

ありました。

実は、意外と女子とよく話す男子でした。

というのも、女子の多い場所というのは女の園といった感じで

絶対的権力をもった女子の”ボス”みたいな人がいます。

ぼくはその人と仲が良かったので、女子にはよく受け入れられてる変な存在だった。

しかし、アホなことにぼくは女子に興味がなかった。

男子高校生の頭の中なんてエロいことしかないだろ!っと思いますよね

僕もそう思います。友達はみんなエロいことで頭がいっぱいでした。

なぜだかぼくは下の感情の発達に異常がある。

このことは中学からの大きな悩み事でした。

エロ本を見て興奮というよりは、引くような感じで受け入れられなかった。

自分はゲイなんだろうか・・・?と考えたこともありましたが違いました。

実際、女性に性的な興奮を体が覚えるまでは時間がかかりました。

はじめて自慰行為をしたのは高3の頃だったかな。

それも何時間もかけて頑張ってしました。

したくてするというよりは、できない自分が恐ろしくて怖くてしていました。

そんな自分をぼくは男性としては終わっていると思いましたし

実際、男としての自分に関しては異常なぐらい自信がなかったです。

よくある同級生の「童貞を捨てたという体験談や自慢話」を聞くたびに

恋愛というものは性的な感情がなければしてはいけないものだと思い込んだ。

性欲のない自分がすごく嫌いで、それを誰にも知られたくはなかった。

女性と付き合うということは、そういうこともオープンになっていくと思うので

それを知られることで傷つくのが怖かったです。

 

すこし話が脱線しますが

これはAセクシャルという人種に近いそうです。

無性愛者という人種でこの人たちは性的感情を抱くどころか、嫌悪感がある人種だそうで完全な無性愛者というのは全世界で1%しかいないらしい。

大学生のときに読んだ本でこのことをぼくは知りました。

すると自分と全く同じ悩みを抱えている人がいることに安心しました。

自慰を無理やりするようなことはしなくなりました。

いろいろ勉強して徐々に矯正していったつもりなんですが

いまだに性的なことをすることに嫌悪感がつきまといます。

 

こういう悩みを抱えていたぼくは

告白されてもNOと答える選択肢しかなったです。

なぜ後悔しているかというと、Aセクシャルという概念を知らなかったが故に

自分の中の恋愛感情という定義を確立できなかったからです。

この子とずっと一緒にいたいとか、この子のためにっていう感情が僕にとっての恋愛です。

(今でもそれは女友達でいいんじゃないのか?という葛藤と戦っていたりする)

ただ気がつくのが遅かった。

 高校3年生のときに1人だけ、ものすごく気が合う女の子がいた。

当時のぼくはゲームオタクな感じで、その子は少しギャルっぽくてとてもオタク属性とは対極にいるような人でした。

なんで一緒にいるの?みたいな感じだった。

そもそもなんでそんな子と仲良くなるのかというと

その子は、とてつもなく古典が苦手だった。

先ほどぼくは古典が得意で、放課後に教える役割があったと言ったのですがそこに接点がありました。

先生も呆れるほど、苦手なその子に課題の採点と解説を任されたのですが

ぼくの中学の経験から、学び方さえ知れば延びるものだとおもって先生がそうしてくれたように親身に教えた。

するといろんなことを話すようになって仲良くなりました。

朝まで電話することも何回かありました。

一緒に遊ぶとかいうことはなかったのですが、テストの度に距離は近くなりました。

放課後の教室に二人っきりで、勉強を教えて話して笑っていたこともあった。

遅くまで学校にいて、一緒に下校することもありました。

 

淡々と書きましたが、まるでギャルゲーや少女漫画のような展開に見えませんか。

その女の子にとって、そういう感じの時間が流れていたのだと思います。

ぼくにとってはどうだったかというと

上の話が男友達との出来事だったりすると、なにもないただの友情話になります。

恋愛がなんたるかを認識できなかったぼくは、ただの友情の時間としか捉えていなかった。

 

そういう思い違いが重なるなかで、その女の子の中の気持ちが溢れたときがあって

突然、告白をされた。

ふいうちを突かれたように、僕の頭のなかは真っ白になった。

よくわからないショックな感情と共にごめんなさいと言ってお断りをした。

嫌いなのか?と返答されてすごく困った。

そりゃそうだろうとおもう。明らかに両思いのような関係性だったのだから。

結局、友達としか見れないとかいうあやふやなことを言って女の子を泣かしてしまった。

それからというもの、その子とはしゃべることも連絡を取ることも無くなりました。

ぼくは大事な友達を失った気分でいっぱいになった。

女の子もショックでいっぱいだっただろう。

 

このときに「OK」と返事ができなかったことが大きな後悔です。

自分がAセクシャル寄りの人種で恋愛に対しての価値観に気がつけていたならOKと言ったとおもいます。

ちなみにこの経験から女性との距離の取り方がわからなくなってしまいました。

距離が近くなればなるほど、異性が自分に抱く感情がわからないからです。

おそらくこれは一生悩まないといけないほどの悩みの種ですね。

 

恋愛観のくだりが長くなりました。

最後の後悔は、大学に進んだことです。

高校での成績は上々ですし、そこそこの私立大学への指定校推薦とやらが獲得できるぐらいでした。

進路相談の際に、ぼくは就職を希望しました。

もともと机にむかって勉強をするというのは好きではないですし

片親でしたし、進学なんて無駄に金がかかるだけで稼いだほうがいいと思っていた。

やりたいこともなかったし、そのへんに就職してなんとかすればいいと思ってました。

すると、その選択にまったをかけたのが両親でした。

両親は大学受験をすることをぼくに求めた。

高卒の両親は、大学へいくことの重要さを社会で痛感したのだ。

その価値観をぼくに押し付けた。

成績はよくても受験勉強のモチベーションはないことを告げて抵抗をしていたんですが

間を割って指定校推薦を取ることになった。

校内の応募で推薦の枠を成績のいい人が勝ち取るのですが

それで落ちたら就職でもいいということでした。

ぼくは、文学部がよかったので適当に地元で名前の通った大学の文学部を応募しました。

そこなら私立でも学費は頑張って出すと言うので。

大学へ行きたくても行けない人がたくさんいる中、

端から見ると変で贅沢な話だと思います。

しかしぼくは正直、落ちろと願っていた。

ですが残酷なことに、落ちませんでした。

4年間もの長い間、大学へ通う・・・続くのか・・?

不安いっぱいのなか進学しました。

 

 

不安な気持ちをよそに大学へ入学しました。

ここからぼくの堕落と地獄がはじまるのです。

ぼくは協調性に欠ける部分があります。

それは人付き合いができないのではなく、嫌いなのです。

もともとAセクシャルなぼくにとっては、現代の若者の価値観の外にいる感じがして

常に孤独と疎外感と違和感でいっぱいでした。

作ろうと思えば友達もたくさんできる。輪の中に入っていけるし、場を盛り上げることもある。

ただそれをすればするほど精神的に辛くなっていく。

 大学は自由な場所でした。青年の自主性が認められる。

いままで僕が何かをしようとしたり、道を脱線しようとしたときに両親が入って

止めて矯正させてきました。

最初は真面目に講義も受けて、人間関係も作っていたのですが

ある日、突然それがとてつもなくしんどくなった。

自分がなにをやっているのかということを見失った。

大学は自由なので行かないことも自由で自己責任です。

 

大学を中退する人に共通するのは、目標や価値を学内で見いだせないことだとおもいます。

なにも見いだせなかったぼくは大学へは行かなくなります。

高校のときにつくった親友達は上京していません。

遊び相手もいなくなったぼくはオンラインゲームに手を出すのです。

ゲームはわかりやすく目標を示してくれます。

そしてその目標や目的をつかめるようにしてくれます。

暇を持て余し、目標のない自分にとっては最高の暇つぶしでした。

気が付くとネトゲ廃人と呼ばれるような人になっていました。

留年ギリギリで1年が終わります。

実家ぐらしなので、それが父親にもバレてしまいます。

久しぶりに激昂する父親に何も言えず、ただ下を向いて今年はいきますとか言っていた。

本当は辞めたかった。

けれども多額の入学金や学費を見てしまうと 、とてもそんなことは言い出せなかった。

なにより、ぼくの姉は大学すら行かせてもらえなかった。

当時、オレンジデイズというキャンパスライフを描いた恋愛ドラマがヒットしていて

それを見た姉が羨ましい羨ましいと言っていた。

その重圧もあってか、2年目からは大学へいくようになった。

それどころか、フルで単位を消化するようになった。

 

なにがあったんだと思いますが

孤独に黙々とやっていくことを咎められないので

わずらわしい人間関係もなくなった感じがして2年目からは居心地がよかった。

加えて、まったく関係のない歴史の講義を受講した。

興味があるからってだけで受講しまくった。

そうでもしないとモチベーションが持たなかった。

ぼくは文学部だったけれど、古典が好きな自分はどうみても史学部向きだったので

3年で学部を史学部に変えて、ゼミにも入ることにした。

満足にゲームや読書を楽しみながら大学へいく忙しい日々でした。

しかし、4年になったときになんと単位を取り切ってしまったのだ。

しかも卒業論文も4年の最初に書き終わらせた。

文系の卒業論文というものは本当につまらない。

すこし高度な読書感想文のようなものだ。

なので、自分は古書店でひっぱりだした巻物を訳して文化や価値観などをまとめたものを卒業研究として書いた。

正直、教授からみれば自由研究のようなレベルのものだとおもうが

恐ろしいことに、現在の大学というものは中堅大学であっても

学生が出す卒業論文は小学校の作文かとおもうようなことが書いてある。

それどころかコピペのオンパレードで、他の大学の卒論をコピーしてそのまま出す人もいた。

(こういう学生が悪いとはぼくは思わない。こういう環境にしている省庁が悪いと思う。)

教授もそれを解っていながらしぶしぶ判子を押す腐った環境だった。

そんな中、ちゃんと自分で古文書を研究した論文というのは稀だったのだろう。

教授はいたく、ぼくを評価した。

 

4回生の初夏に卒論が速攻で認可されてしまったので、大学で勉強をすることがなくなった。

ここから何が始まるかというと普通は就活が始まる。

周りは勉強そっちのけで就活への意識を高めていた。

スキルアップスキルアップ!とか念仏みたいに言ってる人もいれば

就活ってなにそれ?って人もいた。

僕は何をしていたかというと、どっぷりゲームで遊んでいた。

大学で唯一できた友達がどっぷりゲーム漬けだったからだ。

この友達はドン引きするぐらい金持ちの家の子だ。

駅近のワンルームじゃないマンションに1人で住んでいる上に

生活費が寝ているだけで数十万ほど入ってくる。

正直いって悪友だが、そいつの結婚式でスピーチをするぐらいの仲である。

ぼくはそいつのヒモのようになっていた。

そいつといればご飯にも困らないし、ゲームも大量に買う中から

飽きたものや、やらなくなったものは全部ぼくにくれた。

オンラインゲームでもぼくの分の課金を払ってくれていた。

そいつはコネで大企業への入社が決まっているので遊んで暮らしている。

しかし、ぼくはそうじゃない。

そいつとは生きる世界や産まれた世界が違うのはわかっていた。

 

だから学内での企業説明会へは参加するようにした。

加えて、そんなぼくを教授が気にかけてくれていて

ぼくにあった求人を大学にきている求人で探してくれたりしていた。

この時のぼくには目標がなかった。

やりたいこともなかったし、就きたい職業もなかった。

働き口もどうでもよかった。

だから

紹介された求人や説明会で座った企業へ流されるがままエントリーした。

そうすると面接にすら行かない。

あたりまえのことだ。

あやふやな志望動機に、あやふやな業界研究。

あまりに選考落ちするので、心配した教授がキャリア課の人に相談を申し込んだ。

すると、働く意思が弱いだの、業界研究をしていないだの

自己分析をしていないだの、自己PRができていないだの

高望みしすぎだの、業種を絞りすぎだの

人生経験が乏しいだのめたんこに言われた。

 

流れるように受けてただけで、こんな説教をたれられた。

自分の年齢ぐらいは受けないと話にならないらしい。

なんで履歴書を手書きで書かないといけないの?とか聞いたら

手書きがあたりまえの世界だとかで、納得できる答えは返ってこなかった。

某ナビサイトから何十、何百と応募がある中でそのほとんどがぼくのような大学生だとおもう。

企業や業種をよく研究する人を採りたいというのは、当然のことだとおもう。

今はネット社会だし、受ける会社の評判ぐらいは調べればすぐ出てくるし、業界人の体験談もたくさん手に入れられる。

しかし、文系学生に向けられた応募先のほとんどはサービス業や営業職だ。

決して、見下しているというわけではないのですが

学生時分から死ぬほど営業職をやりたい人がいるだろうか。

採用を担当している人も死ぬほど人事がやりたくて人事職をやっているんだろうか。

僕はやっていないとおもう。

でも、その中で僕が採用されたとしたら僕は働いていたとおもう。

だってどうでもよかったのだから。 

 

渡辺和子の名著に『置かれた場所で咲きなさい。』というものがある。

これは自分の思い通りにいかなくても、そこで頑張りなさいという本だ。

この本は、修道士としての精神やキリストの概念も交じるのでぼくはあまり賛同できない本ですが

世の中のほとんどが自分の置かれた場所に満足していないというのは同意する。

教授や先生にどうして先生になったの?と聞いたことがある。

「そうなりたくて」という答えではなく、「気がついたらこうなっていた」と言った。

ゼミの教授は、社会人になっても馴染めず、もう一度大学へ入って気がつけば教授と言われていたのだとか。

みんな置かれた場所で綺麗に咲いている。

ぼくは仕事を選んだつもりはなかったのですが、20社ぐらい受けて、面接までは3社しかいけずに面接は落ちてしまいました。

 そんな中、こんな感情でいっぱいになる。 

「そもそもこんな採用方法に意味なんてあるんだろうか?」という疑問の感情。

結局、新卒のほとんどは3年以内に辞めていくし、働いたこともない若者のなにを測るんだろうか。

理系ならばダイレクトに大学でした研究が職種につながっていくと思う。

しかし、文系の読書感想文を見て、研究熱心とか思うんだろうか。思わないです。

実際、就活で大学の講義やこくごの勉強が役に立つことはなかった。

それどころか、キャリア課では学生時代で実績がないぼくに対して

ボランティアやインターン、バイト経験がないと書類上のアピールは厳しいというアドバイスを貰いました。

面接はアホ面で○○大学の○○でぇす!よろしくおねがいしまぁす!ってしないとダメとか

お辞儀の角度とか、一礼の仕方、ネクタイは首がしまるかとおもうぐらい締めろとか

スーツは黒!ライン入りなんてもってのほか!とか時計は・・!メイクは・・!

大学のキャリア課がなにをいっているんだろう。

ぼくはなんだか、すごく呆れてしまった。大学と就活というシステムそのものに。

現代の新卒採用はくじ引きに近いようなことをしていると思う。

喋って数分や2枚程度の紙切れでなにが測れるんだろう。

ぼくは違和感を感じて次第と就活から遠ざかっていった。

  

この違和感は中学時代に感じた違和感にすごく似ていた。

納得できないのである。だから歩を進めない。

やることがなくなったぼくは友達の家に住み着くようになり遊び呆けた。

 

大学生という期間の終わりが近づいた頃、ある事件が2つ起きる。

1つは父親が末期がんで死亡したこと。父親はぼくが大学生の頃から少し体調を崩し気味だった。

そんな父親は滋養が足りてないと思い、よくわからない健康食品を買っては飲んでいた。

4回生のぼくは友達の家に住み着いてたのもあって、父親と顔を合わせることは滅多になかった。

姉も嫁いで家に帰ることもなく、母親も別居中だったので

だれも父親の体調の変化を察知することはできなかった。 

癌の発覚から一ヶ月ほどで亡くなってしまった。

死ぬ前はみるみるうちにやせ細り、見る影もなかった。

なんだかんだいって頼りにしていたものが、あっという間に死んでしまった。

落ち込むというよりは呆然としてしまって、それからは家に篭もるようになった。

 

もう周りは、就職先が次々と決まって卒業を待つだけだった。

なかなか決まらなかった友達も、もうどこでも良いからと半泣きになりながらも内定をつかんでいた。

ゼミのなかで決まっていないのはぼくだけだったようだ。

卒論を正式に提出する際に、教授から話をしたいと言われて小一時間はなした記憶がある。

日本の就活に対する疑問や、現代の若者について話あった。

結果的には

「キミがなぜ就活をしないのか理解ができない」

「絶対にキミなら就職先はある」「もっと自信をもってほしい」

「このまま卒業してしまっていいのか」

というようなことを言われた。

教授はぼくが自己を過小評価する性格や頑固な性格というのをよくわかってくれていた。

しかしそれでも、動く気にはなぜだかならなかった。

進学の道も示してくれたが、金銭的な問題と勉強嫌いは変わりないのでそれはお断りした。

それからも就職先が決まらないぼくを教授がすごく心配していたそうだが

顔も合わさず逃げるように卒業した。

そんな時に、もう一つの事件が起こる。

 

東日本大震災というやつだ。

数百年に一度と呼ばれるような大地震原発メルトダウン

映画でしか見たこともない高さの津波が街を襲っていた。

地震発生の時をいまでも強く覚えている。

ゲーム生活の昼夜逆転で寝起きだったぼくは温かいココアをいれて飲んでいた。

目眩のような、クラクラする感覚があって変に感じた。

少し遠くのお茶のペッドボトルを見ると、水がゆっくり動いていた。

家が地盤沈下でもしたのかなっとおもって居間のテレビをつけると大地震が発生していた。

ぼくが住む場所からは数百キロ以上離れているのに、揺れが伝わってくることに驚いた。

それからの惨事は言うまでもない。

 

これ以降の日本というのは異様な状態だった。

花見を自粛する謎の雰囲気やおちゃらけたものは不謹慎だとしてバラエティ番組も、CMも流れなくなった。

公共広告機構のCMが流れすぎて、出演者に殺人予告や苦情が殺到する不思議なことが起こっていた。

楽しい気持ちになったら不謹慎!

今考えると信じられないと思うけれど、日本中が本当にこうだった。

日本が終わってしまうんじゃないんだろうかという感じさえした。

社会や世の中に対して呆れていた自分には

不謹慎だけれども心の何処かで現状の価値観が瓦解するようなことを期待していた。

そんなこともあってか、就活をするということをすっかり忘れて時間が経った。

 

家でひたすらゴロゴロしてるぼくを尻目に母親が家に戻ってきた。

僕にとって母親は自分勝手な大人という感じで、親とはあまり思っていない。

家事や料理をやっているところなんて見たこともないし

幼いぼくと遊んでくれたこともほとんどない。

そういうことはほとんど父親と姉がやっていた。

そんな母親は震災の影響もあってか最初は哀れみをもって僕のことを見ていたが

だんだんとゴロゴロするぼくをひたすら糾弾した。

バイトでもいいから働け。働かないでどうするんだ。

顔を合わせばそう言ってくるようになる。

 

幸いかどうかわからないですが、僕には父親の遺産があった。

そんな大きなものではないけれど、姉はいらないと言ったので母と遺産を分けた。

新車が1つ買えるほどのお金があった。

今思えば、それを専門学校かなんかの入学費にでも使えばよかったと思いますが

それを食いつぶして生きていたので、働かなくても大丈夫だった。

 

気が付くと立派なニートが出来上がっていた。

昼は寝て過ごし、夕方おきてはテレビやゲームで時間を潰す毎日。

遊び相手は上京や帰京したり就職したりしていたので誰もいなかった。

意図したわけでもなく、ぼくは社会から隔離されていった。

最初のうちは孤独だったが、リタイア組みたいなのが出てくる。

新卒で就職したけれどミスマッチで辞めて実家に戻ってきたような人だ。

すると、別に集まろうとしたわけでもなく自然とニートフリーターの友達が出来た。

彼らもぼくと同じで気がつけばニートになってて、フリーターしてたような人だ。

暇だけはあるからみんなで遊んだ。

学生時代より仲が良くなった人もいた。

そんな生活が3年ほど続くと、完全に社会の外にいる人間になっていた。

 

この頃になると、家族からは見捨てられてなにも言われなくなる。

しかも、ギャンブルにも手を出すようになる。

きっかけは競輪で大勝ちをしたことで、やめられなくなった。

手を出した頃は羽振りがよく、お金が回復していった。

これでまた遊べるとかバカなことばっかり考えていた。

そもそも、引きこもりで買い物といえばゲームを買うとかネトゲの課金ぐらいで

1年で20万も使わない。

年金とか保険なんてもちろん払ってない。

100万ほどあったらそれだけで満足に生きてた。

いつのまにか働くということは頭から抜けていて、ギャンブルすればいいとおもっていた。

 

しかし、そんな生活が続くわけもなく、そこから数年たつと金も財布に収まるほどになっていた。

その頃には、ニートと呼べるのは自分ぐらいしかいなくなってて

みんな就職していった。

お金もないし、遊び相手もいないから就職でもするきっかけがほしかったのですが

いいきっかけを友達が与えてくれました。

 

そんなわけで今年の就活がスタートする。